
内田樹 光文社新書 2010 8/20
「テレビ視聴率の低下、新聞部数の激減、出版の不調──、
未曽有の危機の原因はどこにあるのか?
「贈与と返礼」の人類学的地平からメディアの社会的存在意義を探り、
危機の本質を見極める。内田樹が贈る、
マニュアルのない未来を生き抜くすべての人に必要な
「知」のレッスン。神戸女学院大学の人気講義を書籍化。」
ということで、ようやく読了です。
内田先生によるメディア論です。
みなさんも視聴率の低下や出版関係の不調は、
色々な方向から耳に、目に、していることでありましょう。
その部分をチクっと刺す内容でした。
メディア自身の不調の原因はメディア自身にある、
と言うようなくだりがあります。
これは、頷けるところではありますし、
ここまでそのシステムをガチガチに構築し、
がんじがらめになってしまったメディアのどこに、
復調の道は開けるでしょうか。
幾つか引用しますと、
「テレビの場合、放送するためにはお金もかかるし、
機材も要るし、人間も要るし、スポンサーや政治家や行政の
干渉にも応接しなければならない。
だから、「つつがなく放送する」ことそれ自体が自己目的化する。
それはやむを得ない。でも、それはシステムとしては
きわめて脆弱だということを意味しています。」
「「とりあえず『弱者』の味方」をする、
というのはメディアの態度として正しいからです。
けれども、それは結論ではなくて、一時的な「方便」にすぎない
ということを忘れてはいけない。何が起きたのかを吟味する仕事は、
そこから始らなければならない。
僕はメディアはそのことを忘れているのではないかと思います。」
この2つの文章について、思わず納得させられてしまったものです。
もはや、自由がきかない、と言えますね。
しかし、ネットの普及により、
人々の「理解」は大いに深まったことと思います。
たくさんの情報と娯楽に満ち溢れたその世界は、
従来の定まったチャンネル数を大きく飛び越え、
思わぬ満足と悲しみを、より速く伝えてくれます。
どれが嘘でどれが真実か不安定なままで。
ジャーナリズムの根はやはり真実を伝えること。
これに尽きます。
たくさんの言葉の飛び交うネットとメディアは、
相互関係を維持しながらも闘い続けなければいけないことでしょう。
メディアの不調、それはメディア側にある、
という意見に加え、それ故に半信半疑に陥った我々がそこにいる、
ということも我々は汲まなければいけない、そう感じました。
読書、に関しても言及していまして、
そこに面白いことが書かれてありました。
「「前未来形」というのは未来のある時点で
完了した行為や状態について使う時制です。
「今日の午後の三時に私はこの仕事を終えているであろう」
というようなのがそれです。
書棚に配架された本が「前未来形で書かれている」というのは、
その書棚に並んだ本の背表紙を見た人が
「ああ、この人はこういう本を読む人なんだな」
と思われたいという欲望が書物の選択と配架のしかたに
強いバイアスをかけているということです。
人から「センスのいい人」だと思われたい、
「知的な人」だと思われたい、あるいは
「底知れぬ人」だと思われたい、
そういう僕たちの欲望が書棚にはあらわに投影されている。」
書棚の背表紙に反映される、
というのはたしかに思い当たる次第です。。。
それに似て、CDなどもそうではありませんか?
「並べる」という行為は、自らが行う行為であり、
すなわち我々の意識を通過する。
自分が見たい形=見せたい形
このような関係というのは、決して拭えぬものでありましょう。
あぁ、なるほどな、ということが、
多分に含まれた面白い1冊でした。
最後に、内田氏が述べた一文を引用して締めましょう。
「中国のような海賊版の横行する国と、
アメリカのようなコピーライトが株券のように取引される国は、
著作権についてまったく反対の構えを取っているように
見えますけれど、どちらもオリジネイターに対する「ありがとう」
というイノセントな感謝の言葉を忘れている点では相似的です。」
時に、己を通過する音楽やニュースなどの記事は、
己の姿勢に反映されると思います。
固定観念、が一番わかりやすいところかもしれませんが、
真摯、これを双方が大事にしなければいけない部分の一つ、
ではないかな、なんて思ったりもしました。