パソコン周りを整理していたら、
高校時代より、文学を読んだ後に、
記していた、様々な著者による、
自分なりの名言集をまとめた小さなノートをみつける。
最近、そう、僕のまわりで恋の終わりが多発している。
あいつとあいつとあいつとあいつと、、、
少なくとも最近だけで、4組のカップルが終わりを告げたと思われる。
そのせいで僕の家は4人暮らしになって余計楽しいのだけれど。
そいつらのために、そして自分のために、
名言を駆使して、女を独善的に批判してあげよう。
これがエールになれば、と。
当時から、特にお気に入りだったのは、
ゲーテの言葉だ(出典はたしか詩集)。
「千匹のハエを私は夕方たたき殺した。
それだのに、早朝、私は一匹のハエに起こされた」
この夕方、まさに僕の1年前の姿といってよい。
無駄骨に過ぎない、、、、
ように今では感じる日々も、また人生なのか。
何に向かって、何のために、そして何を考えていたのか。
ましてや、あいつは6年同棲していて、、、
私は、今日、その通り、早朝、うるさいハエが現れた。
私はたたき殺した(つもりだが)、結局はこの繰り返しなのだろう。
これを許容する、余裕を持つこと、が先決なわけだ。
さて、ゴダールの映画「中国女」
においてこんなセリフがある。
「自由の手が清潔だとは限らない」
政治思想の流れのもとで流れた(であろう、内容忘れた)
セリフだと記憶するが、
私はこの言葉を政治という(ある種)狭義のもとで収めることはできない。
時々いるんだよなぁ、自由、とか天真爛漫とか、、、云々
蠱惑に過ぎない。(これは男子にも通じるが)
自由は、自己完結させ、口外しないのが一番だ、
という主張は、自由を不自由にしているというのですかね?
まぁ、女は基本、足軽な上に尻軽で自由自由といって、
こっちからすりゃ、都合いいだけな生き物だぜ。
まっ、ケーヤ、そういうことだ。(あえて、お前は名指し)
なつかしき名作、トルストイ「人生論」の中では、
「目に見える生活は、生命の無限の運動の一部分にしかすぎない」
「真の愛は個人的幸福を否定した結果である」
さて、別れた君たち、この言葉を読んだ上で、
真の愛を求めていたか、と問われた時、
素直に「もち!」と答えることができるだろうか。
別れには(後付けであれ)理由がある。
別れは(別れなくとも、だけど)、時間として(時間は)消化(され)し、
無限運動の一部分に含蓄されることになる。
所詮、そんなもんです。働けばいいし、
友達と遊べばいいし、簡単なのはウチに遊びに来ればいい。
「トニオ・クレーゲル」トーマス・マン
「最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ」
男はある時、ふとした時に、情を持つ。
あれってなんなんだろう。情が出たら、負けだ。
この名言の間逆を行く幸せ者こそ、
我が家の家主、松田君、といってよい。
これもゴダール「アワーミュージック」から
「喪失の中にこそ、偉大な詩は生まれる」
様々な錯雑は時として、
奇異な感性をもたらす。
深く考え込むこともいいだろうし、
はじけることも大事。
この喪失の時こそ、大事にしよう。
これが意識にあるかないか、
においても、人生のエッセンス、
つまり人として妙味となるいい機会だぜ。
落ち込むなよっ!
・注意 様々な名言を「失恋」という1点’のみ’から、
それも男子の(それも友達への)視点で、
あえて見た恣意的な記事であることは、
第3者には理解していただきたい。
※おすすめ動画
Mary Lou Lord - The Lucky One
2009年6月17日水曜日
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kore,
返信削除これなんか面白かった。
ゴダールについて語るあなたを初めてみたような。
おっ!いつもコメントどうもー!
返信削除なぜか、ゴダールが2個もこの記事で、
出てきちゃったね!
でも、最近映画見れてなくてなぁ。。
そうだ、映画を見よう!!