「文章」というものについて考える。
私が最初にそれを意識したのは、いつだったろう、
6,7年前あたりだろうか。
ただ、読むのは好きだが、書くのは苦手だ。
しかし、その頃から勝手に師は、辰濃和男、と私は仰ぐ。
さて、文章への意識とは具体的に何を指すのか。
その答えは実に簡単なところであり、
「わかりやすさ」これに尽きる。
この「わかりやすさ」が奥深いゆえ、文章とは、面白い。
一例を挙げれば、平仮名と漢字のバランスだ。
一般的には、無意識的に読み手に作用しているといって良いだろう。
このバランス比は、文章の硬さとやわらかさにつながる。
人の書く文章を眺めることは勉強になる。
例えば、文章の中に難しい文字や難解な表現を用いたがること。
これは、上手でないと自分で言っているようなものである。
論文等の専門性の高い媒体以外で、私はそのような文章を信用しない。
この「難しい」とは、漢字だけに限ったことではない。
横文字の表現の多用にはエゴが窺える。
案外そういった文章も信用はできない。
「難しい文字を使いたがるのは、文章が下手な証拠だ。
下手だからことさらに難しい字を使って飾ろうとしているのだ。
文章を飾るだけでなく『事柄の馬鹿らしくて見苦しき様』を飾ろうとしているのだ」
これは福沢諭吉が言ったことだ。
この時点で、エゴは捨てるべきだ、とわかるだろう。
つまりは、文章には性格が出易い。
もっといえば、書いている時の気分も出易い。
感情的になると、つまり利己的・恣意的な文章は、
「わかりやすさ」を埋没させている。
沢村貞子の漬け物の話。
「暑さにうだる夏の夜でも、濃い紫にひかる茄子は
食欲をそそる。きれいな色を出すためにぬか床に
包丁や釘をいれる、などという話もきくが、
私は焼みょうばんを使っている。薬局で買った固まりを
すこしづつ、乾いたフキンにつつみ、金槌でそっと叩いて
粉末にしておく。なるたけ新しい茄子をえらび、少量の塩で
皮をなでるように優しく、まんべんなく揉んでやる。
手ざわりがなんとなくやわらかい感じになったら、
左の掌に一つまみのみょうばんをひろげ、
その上に右手でもった茄子をくるりくるりところがす」
バランスも最高で、何ともその場面がよく伝わる素晴らしい文だ。
これを見て、辰濃氏はこう述べる。
「『なでるように優しく、まんべんなく揉んでやる』
なんていう表現は現場にいなければ書けません。
体験の数々は動詞で表されます。
沢村の文章がきわめて具体的で、わかりやすいのは、
動詞を文章の基本にしているからだ、と私は思っています」
自分の体験を偽りなく、かつ綿密に、
忠実に動詞をもってして書かれているからわかりやすい。
加えて、現場性つまり臨場感も豊かであり、
それは「わかりやすさ」という表現に直結している。
何とも美しい文章ではなかろうか。
深く広い視野と心をうかがわせる。
つまりは、辰濃氏を今時分思い出し、
この時より、己の視野に少々の広さを持つことができた、
ということを私は今、思い出したわけだ。
原点をみつめてみたわけだが、
ここ数年で忘れてしまっていた感覚だろう。
しかし、どうやら師は心のどこかに眠っていたようだ。
※おすすめ動画
The Postmarks - Goodbye
(彼らは絶対に売れるだろう。もう売れているのでしょうか?
実に良いポップを聞かせてくれる。)
The Postmarks - "11:59"
(こちらはBlondieのカヴァー。
デボラ・ハリーの懐かしさもあるにはあるが、
いや、これには参った。)
2009年4月8日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿